手話と口話「どちらも大切」
前回の手話は言語としては発展途上で書いた手話と口話とどちらも大切なことについて書きます。
手話と口話「どちらも大切」なのはなぜだと思いますか?
聴覚障害児の教育では、聴覚活用が得意で、手話を必要としていない、難聴の児童もいますが、口話にしても、相手の声が十分に聞こえないことに変わらないのです。
聾学校では口話が適しない生徒もいますが、一方ではわたしのように補聴器をつければ、残存聴力がある生徒もいます。その中で口話を希望する生徒や親を切り捨てるわけもいきません。
手話は手話がわかる人にしか話が通じないこともまた現実です。
聾学校では人事異動で他の学校からやってきて、手話が使えない先生もいますが、これを手話が得意でない人と話をする技能からしても、必要だと考えると、理にかなっています。
わたしが京都府立聾学校幼稚部に在籍していた当時、「お兄さん」と親しんでいた、一番若かった先生は実は初めは手話がまったくできなかったと話されていました。
生徒達と関わっていく中で覚えていかれたそうです。
最終的には主幹にまでなられましたが、この先生と同じように生徒と関わる中で覚えて行かれた方は多くいます。
昭和初期に口話教育主導に反対した大阪市立聾唖学校校長の高橋潔先生が提唱した、「ORAシステム」では生徒の適性を見て、口話がむいている子、手話がむいている子、口話と手話がむいている子と3つのグループに分けて、落ちこぼれを出さない適正教育をしていく考えでした。
高橋潔先生は口話が適しない子供もいるのに一律で口話教育を行うのは無理があると指摘しているのであり、一律で手話教育をやるべきだという主張はしていません。
公立聾学校は時代の中でその時点におけるベストと思われる方法を取り入れて、現在は手話と聴覚口話のいずれも「どちらも大切」と採用しているのが現実です。現在はろう教育初期、そして高橋潔先生の考え方に戻っています。
ただし、コミュニケーション不全から来る精神的な問題については昭和初期と比べて解決しているとはいえません。