精神世界の現実
心でしか見えないとっても大切なこと
ぼくの秘密が聞きたいかい?
ちっとも難しいことじゃないんだよ
この世には目には見えなくて、
心でしか見えない
とっても大切なことがあるってことなんだよ
サン テグジュペリ
よく次のように言われます。
「レイキは怪しい」
私達はパソコンや携帯電話が悪いことに使われているからといって「パソコンや携帯電話は悪だ」という人はいません。レイキも同じように道具の1つでしかありません。その使い方は当人に委ねられます。
キワモノ扱いされてしまう一因
スピリチュアル的な本を出版する専門の出版社をのぞいて、テレビや新聞といったマスコミではスピリチュアルについてはおもしろ半分あるいは怪しげな扱いをされている面があります。
スピリチュアル的な話については放送できる時間が限られているため、切り口が限られてきたり、人生相談などを面白半分で取り上げる傾向もみられるため、話が一方通行になっているのが現状です。
私は人生相談でとくに精神面での話はスピリチュアル的なアドバイスで解決できる!などと生半可にアドバイスするために公開してはいけないと思います。
現実には一人一人の背景など異なるため、見ただけで解決するように錯覚して、似たような問題を抱えている人が単純にその話だけを真似ると、問題が悪化する場合があるからです。
そういったうまくいかなかった話を報道だけを見聞きして、何も考えないで「宗教やスピリチュアル全般は怪しい」というイメージがスピリチュアルを正しく知り、上手に活用する方法を遠ざけてしまった結果として被害に遭う人達が絶えない原因にもなっています。

マスコミが報道するから本当とは限りません
マスコミの報道を鵜呑みにしないでください
その話がマスコミで取り上げられているから、学者といった権威を持つ人が話しているからといって、本当とは限りません。
単純に鵜呑みにしないでください。
当然ですが、わたしの話も例外ではありません。
起業した頃から、何度かマスコミに取材を受けた経験がありますが、取材する側もきちんと調べてきた取材者もいれば、知識がロクになく、単に売れたらいいとする記者やライターもいます。
2014年3月に「全聾の作曲家」を称していた佐村河内守氏の会見でマスコミが難聴と聴覚障害について全く何も知らず、国際的には聴覚障害となる50デシベルの難聴であるにも関わらず、記者会見で「聞こえている!」と決めつけた大失態は記憶に新しい話です。
この話はライターがメディア不況の中、売らんばかりにと煽って、その狙いは佐村河内守氏を失脚させて、大金が入るであろう曲の権利と名声を横取りしようとしていた可能性が高くなっています。
姉妹サイトで書いた話は書いてから5日程度で1万アクセス以上を集めました。とくにマスコミ関係者のアクセスが多くあり、新聞記者や出版社の方、作家からも感想をいただきました。その後もアクセスをいただき、1ヶ月で5万アクセスに達しました。
専門的な内容がわかりやすく書かれていたのがここしかなかったことから、ほぼ1年で8万件以上のアクセスになりました。同時に報道が沈静化していきました。
平成28年6月に公開されて、日本中で大ヒットロングラン上映となった森達也監督の映画「FAKE」の撮影でわたしが佐村河内守氏と直に対談した時、決定的になりました。
聞こえる人が聞こえない人を演じても当事者である私はその不自然さがわかるからです。
さらに調べていくと多くの事実がわかりました。
この事実を煽った当事者達に向けて、痛い一撃を食らわせた上に、映画では不十分だった事実を日本全国に発信したところ、関係者らしき者にネット上に「氏ね、前川修寬」と書かれていたとの事。
それだけ都合の悪い事実をついたのでしょう。
この話からもわかるように、マスコミが報道しているから事実とは限りません。
ネットにあるから正しいとはいえません。私は誠実に、事実を書くように十分に注意していますが、それでも表現や言葉のあやがないとはいえません。
書き言葉が万能ではない以上、わたしが伝えたいと書いた事があなたに伝わっているかどうかは直に確認しない限り、わからないからです。
わたしたちは自分の見識を広げるすばらしいチャンスを「マスコミが報道していないから」「社会の常識」「科学的根拠」で思考にフタをしないで、自分で実際に調べて、実際に見て、考えて、判断できるでしょう。
ハンドヒーリングは仏陀やイエスも使っていた
ハンドヒーリングそのものは古くからあり、ブッダやイエス・キリストといった聖人達もハンドヒーリングを行っていた事が伝えられています。
奈良の大仏さまの右手がどんな状態かご存じでしょうか?ヒーリングを行う手です。
「レイキの歴史」でも解説していますが、レイキは古来からあるハンドヒーリングを大正時代に臼井先生が新たな形で「再発見」して、誰でも始められるように体系化したものです。
まず、レイキは「みんな違っていい」が基本です。宗教団体にありがちな禁止事項やルールはありません。
レイキは元々本来誰もがアチューメントする事で使えるようになるものですから、コントロールしたり、統率する特定の団体を必要とはしていません。それが短所でもあるのですが。
レイキをどのように使うかはその人に委ねられます。
極端なたとえですが、レイキは包丁と同じです。
人格的に立派な人でなくても使えます。
包丁は料理にも使えれば、人を脅したり、危める事にも使えます。
当然のことながら、悪事に使う事もできます。
「怪しい団体」との区別は必要
日本の伊勢神宮や住吉大社といった神社などのきちんとした宗教法人と反社会的な行為を行う怪しい団体とは別者です。
昭和初期に新興宗教団体を創立した方が実はレイキを習っていた事、それを「手かざし」などの別名で、取り入れていた事が伝わっています。
創立された方の名誉のために断っておくと、真面目にしておられていますし、亡くなった後に「団体の事情」により分裂したり、派生した団体で信者を増やそうと「奇跡」を売りにしたり、必要以上に神格化した強引な勧誘で問題になった団体もあります。
とくに問題なのは日本人になりすまして団体を乗っ取られたりしたり、外国系の怪しい団体が悪用している事です。
日本人になりすましたり、キリスト教系を装ったり、大学などのサークルで宗教団体の名前を出さないで勧誘していたり、もともとあった宗教法人団体がのっとられ、過度な拝金主義に走っている話があります。
以前はその映像がネット上にありましたが、必要以上に教祖や幹部を神格化して、祭り上げる、特亜系の否定的な「人を自分の思い通りにしたい」「支配してやりたい」などのどす黒い感情を感じました。
人の不安や恐怖につけこみ、感情を拡大するほど強いパワーです。人生経験が浅い人ではひきずられかねないほどの恐ろしさがあります。
私達は「権威の言葉」に惑わされないで、自分の目で確かめ、判断して、区別する事が大切です。
イメージを汚された「神」
「神」の名前を借りて子供の頃に厳格な両親や牧師、僧侶、神父、神主といった「権威」に押しつけられたことから宗教に対して反感を持ったり、宗教が嫌いになった人もいます。
私も10代の頃に「聴覚障害は前世の報い」と言う話を聞かされて「宗教嫌い」になった事があります。
マスコミが問題のある宗教団体の悪事を繰り返し報道していった結果、伊勢神宮などのまっとうな宗教団体も含めて、無差別に「悪」としてしまうのは異常だと気づきます。
また、そうすることで私達日本人を目に見えない世界から引き離すことによって、猜疑心や不安でいっぱいにするプロバガンダが動いているのではないかとも感じています。
しかし、宗教と称する団体の正体が神そのものではなく、実は単なるシステムや「習慣」からくるものだとしたらどうなるでしょう?
巧妙にすり替えられたもの
「天罰」「因果応報」「死後裁かれる」と主張する団体の背景にあるのは、神を信仰する際に、仲介者である「聖職者」と称する権威、及び偶像(シンボル)を絶対化している事に気づきます。
宗教団体の権威を守り、自分の思考委と力を神の権威を元に聖職者や団体に明け渡させてしまう全体主義と権威主義のシステムが「習慣」として働いているとも考えられます。

ブッダやイエス・キリスト達聖人は「私たち1人1人が神と繋がる事ができます」と説明しています。そして「自分が神である」と称した事はありません。
「1人1人が神と繋がる事ができる」のであれば、まさに「宗教はいらない」「教団はいらない」という事になります。
西暦180年、リヨンの司教イレネウスが聖職者の権威が失われることを恐れて、教会の教義に反する考えを非難、排除してしまいました。
1000年以上教義に従わない人間は宗教裁判にかけられ、極刑を科せられるという暗黒の時代が続きました。
当時使われた「外部の何かの権威を絶対化して、巧妙に力を明け渡させる」仕組みは現代でもマスメディアなどで使われていることに気づきます。
「宗教をしている人は頭がおかしい」「政治と宗教については話しない方がよい」といった、印象操作のような記事をみたことありませんか?
本来の意味での宗教

私は京都市の下賀茂神社や大阪の住吉大社、鞍馬寺などに行きます。とくに下賀茂神社は母校が近くにあるのでよく行きますが、「糺の森」の明るく、すがすがしい自然の空気と雰囲気が好きです。
伊勢神宮の厳かな空気は参拝した誰もが感じます。
全国の「聖地」にある神社やお寺の多くでは古今東西の宗教を問わず、全ての人を受け入れています。それぞれ参拝のしきたりはありますが、必要以上にかくあらねばという事はありません。
多くの外国人もこの事を共通して指摘しています。昭和42(1967)年秋、伊勢神宮を訪れたイギリスの文明史家アーノルド・トインビーは、次のように毛筆で記帳しました。
Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.
Arnold Toynbee
29 Novemnber, 1967
(この聖地において、私はあらゆる宗教の根底をなす統一的なるものを感ずる。)
アーノルド・トインビー 1967年11月29日
平安末期から鎌倉初頭に生きた歌人・西行も歌に詠んでいます。
なにごとのおはしますかはしらねども
かたじけなさになみだこぼるる
西行
仏教を奉ずる西行が「何がいらっしゃるのかは知らないが、有り難さに涙がこぼれる」と言いいました。宗教や教義を超えた無言の「神聖さ」、「ありがたさ」をトインビーも西行も感じとったのでしょう。わたしも同じように感じました。
聖なる存在皇室
「聖なる存在」は我が国にあります。二千年以上続く、皇室と天皇陛下です。

2010年3月に地元京都府長岡京市に行啓幸された天皇陛下、皇后陛下が前を通られた時、私は伊勢神宮をお参りしたのと同じ、「ありがたい何か」を魂で感じました。
外交では英国女王、ローマ法王と並ぶか、それ以上の地位とされる天皇陛下です。
天皇陛下は我が国の祭祀王、国民の安寧を願う「聖なる存在」として間違いなく実在します。感動のあまり、私は真っ先に「万歳」三唱を繰り出しました。
天皇陛下、皇后陛下がどのように国民と共にあってこられたかはご存じの通りですが、実際に間近で見ると、私が感じる「高次の存在」と同じ「聖なるもの」を感じ、感謝せずにいられませんでした。
敗戦後の食糧事情が悪かった頃に始まった皇居の勤労奉仕が70年以上も続いていたり、新年の一般参賀に6万人ものの人が訪れるのもうなずける話です。
「権威」の声に判断を委ねない
「救いは一歩踏み出すことだ。さらにもう一歩。そして、たえずそのおなじ一歩を繰り返すことだ」
出典:『サン=テグジュペリの言葉』、山崎庸一郎 訳編、弥生書房、P114より
宗教団体で「あなたが苦しむのはカルマのせい」と言われ続けて、苦しんでいる方が私のもとに来られました。
来られた時は他人への不信感が強い状態で最初は何も話してくれませんでした。ヒーリングを行うと、強い否定的なエネルギーを発していました。
何度もセッションを何度も繰り返して、ようやく心が癒えて、話をするようにまでなってくれました。
私の所に来るまで、他のセラピストさんでは全くできなかったそうです。
「あなたが考える意味の『カルマ』はまったく別物ですよ」
カルマの正体を説明すると、この方はポロポロ涙を流しました。また、必要なら弁護士を紹介しましょうと話もしました。
たとえ、正しくてもその時点ではできないこともありますから、無理な教義を振りかざしてくるなら、断ったらいいのです。
これは理屈ではなく、実際に感覚で理解するとわかります。さらに自分の心と感情の状態によって変わってきます。
「征服とは、おまえの内部に、おまえを通して、
おまえ自身を築きあげることである」
出典:『サン=テグジュペリの言葉』、山崎庸一郎 訳編、弥生書房、P80より
「星の王子様」で知られるサン=テグジュペリの言葉ですが、「征服」とは「主体性」「自立」「自信」と読み換えるといいでしょう。「克服」ともいえますね。
正しい思考は幸せな結果をもたらしますが、間違った思考は不幸な結果をもたらします。自分がどのような思考を選ぶか、そしてどの選択肢を選ぶかは自己責任なのです。
これは宗教を信じていようが、信じていまいが関係なく起こることです。
なお、念のため書きますが、ここで言う自己責任とは自分の方向性をかえりみて、間違いがあれば、淡々と修正する意味です。過ちを過度に批判したり、必要以上に責めたてる自己責任とは違います。
宗教がもつ役割に気付く
2009年4月、会社をつぶして、経済的に困窮していた私に仕事を紹介してくれたのは天台宗のお坊さんでした。
【参考】こころの夜明け
彼は自信を失っていた、耳の聞こえない私がどうやって働けるかを一緒に考え、仕事の話をしてくれました。権威ぶるような宗教的な言葉は一度も出てきませんでした。
私はこのお坊さんのように、宗教には地域の人の状況に応じて、臨機応変に助ける役割があるのだと気付きました。同時に学び、個人の成長と自立を尊重するものだと気付きました。
お坊さんだけでなく、昔から宗教や宗派を問わず、悩む人を助けてきた僧侶、神主たち聖職者は多くいます。それを地域の人達が「浄財」「お玉串」「寄進」などの形で経済的に支えてきました。
医者では対応できない感情や精神の問題をお坊さんたち聖職者が「ヒーラー」として対応していたという面もあります。
「無料ですべき」は自分の首を絞めます
賢明なあなたのことですから、すぐに気付くと思います。
精神世界の話に限らず「金儲けは悪」「無料にすべき」という話を聞くことがあります。でもあなたが本当に豊かになりたいのなら、お金が循環する経済の仕組みを学び、理解すれば、この考え方は放棄した方がいい事に気づくでしょう。
金儲けそのものが悪ではなく、お金に執着する、もしくは嫌うなど、お金に対する考え方や態度が問題だと気づけばなおさらです。
昔から「お金がなかったけれど、お坊さんが無料でみてくれて助かった」という話があります。でも、隠されている事実として地域の人達や商店が、お寺や聖職者を経済的に支えてくれていたから、無料にできたのです。
大学生対象の禅道場として、塾生は禅塾に寄宿し、禅の実践を行いつつ、京都・大阪の大学に通っている長岡禅塾が私が住んでいる長岡京市内にあります。ここは文化を感じる素晴らしい環境ですが、総合商社の双日をはじめとする企業がお金を出しあう協賛企業となって、若い人達を育ててています。
いわゆる「お金持ち」と言われる方々とよくお話することがありますが、お金持ちだから寄付するのでは無く、お金持ちではなかった頃から寄付していたという人は珍しくありません。
こうした地域や人のつながりは「経世在民=経済」の仕組みの1つ「お金の循環」から見ても、とっても理にかなっており、宗教が福祉に果たしている役割も大切なものだと気付きます。
「金儲けは悪」、「無料にすべき」、「安くすべき」といった話が独り歩きするのも、実は個人の妬みや僻みなどマイナス感情につけこむ、プロバガンダから来ていることも珍しくありません。
もし、あなたがこの一方的な話に同意して他人を責めたら、自分の首を絞めることになりかねません。
なぜなら「金儲けは悪」とした時点で、「自分が働いてお金を儲けることは悪」にもなるからで、「自分にはお金が入らなくていい」としているのと同じ事になるからです。
お金を使わずに済ませようと他人を無料で利用したら、なおさらではないかと思います。人を無料あるいは格安で利用した人達がその後、いい目にあっていないことを知ればなおさらです。
精神世界でありがちな「貧しき者こそ幸いである」「清貧こそ正しい」といった考え方がなぜ誤りなのかわかります。どうせなら「人に喜ばれる事をして、お金を儲けさせていただいて、同時に社会に還元させていただこう」と決めた方が、可能性が広がるでしょう。
大切なのは自分を信じる事です
「方法こそ異なっていても、目的は異ならない。目的はつねに同一である」
出典:『サン=テグジュペリの言葉』、山崎庸一郎 訳編、弥生書房、P106より
宗教に関わらず、自分を信頼する事は、宇宙を信頼するのと同じです。
アップルコンピューターの創立者スティーブ・ジョブスの言葉です。
君達の時間は限られている。だから自分以外の人の人生を生きて無駄にする暇なんかない。
ドグマ(宗教・宗派の教義「かくあらねば」論)という罠にからめ取られてはいけない。
それは他の人達が生んだ結果と共に生きて行くという事だからね。
その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声・心・直感をかき消されない事です。
自分の内なる声・心・直感というのは、どうしたわけか君が本当にやりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。
だから、それ以外の事は全て二の次でいい。
スティーブ・ジョブス
この言葉は私たちに教えてくれます。
宗教・宗派の教義にありがちあな「かくあらねば」論という罠にはまると本来のやさしさなどのパワーが活かせない状態にもなります。
同時に現代人で自分の内なる声・心・直感がわからなくなっている人が多いことは実感しています。
私は自分の内なる声・心・直感がわかるように、そして幸せを選択できるように支援していきましょう。最後までお読みいただき、ありがとうございます。