社会人になるまで
前川修寬についてからの続き
はじめに
こんにちは、前川修寛です。あなたがこうして読んでくださることに感謝します。
私は左右とも2級の聴覚障害者で補聴器を使っています。
私は子供の頃から厳しい特訓を受けてきました。
お会いしたことのある方ならご存じのように、話は聞こえにくいけれど、そこそこできます。
しかし、よく聞き取れない事も多くあります。このため、相手の話の内容を充分に把握できていない事もあります。
昔から「聴覚障害児は訓練を頑張れば聞こえる人と同じくらいに話せるようになる」と言われて来ました。しかし、そうではありません。
確かに報道ではよく「聴覚障害を克服して‥」といったお決まりの報道がなされてきましたが、それは「100%」ではないことに気づいているでしょうか。
私自身、「努力して頑張って、健聴者並になれる、そうしたら解決できる」と思っていました。確かに話はできるようになりました。
しかし、それは100%ではありません。
長い間、100%の理想と現実にそこまでできない自分に腹を立てたり、自分をずっと責めていました。そのため「心の壁」が築かれてしまいました。
常に不安や恐れにかられていたり、何かにつけて物事を悲観的に考えたり、他人の批判や粗探しをしたりと、攻撃的になっていました。
人と関わりを持とうとしない、「対人恐怖症」もありました。マイナス思考、否定的な感情の循環が長年続いていましたが、「自分は運が悪いんだ」と思う事もしばしばでした。
今、振り返るとそれらは原因がわからないので、何かを理由にしていた「言い訳」でした。
聴覚障害者や難聴者が受ける精神的な問題も含めたメンタル的な問題があります。
心理的なストレスや自己受容などマインドの課題は極度の緊張感、自己受容ができない、自分に対する激しい怒りや劣等感、コミュニケーション不全、自分が難聴・聴覚障害者でありながら、同じハンデを持つ人に対して攻撃的になる、あるいは強い嫌悪感を持つなど多くの問題があります。
ところが、わたしもそうでしたが多くが「個人の性格の問題」で片付けられてきました。
公のデータがありませんが、うつやパニックとされている人も多いかもしれません。
難聴者協会、ろう者協会などの団体でも昔から言われているにもかかわらず、その困難さから、事実上「難聴だから、聴覚障害者だから仕方が無い」としてきた現実があります、
それに逆らって、私がクリアできたのはなぜか?
「できた」というより、導かれた感じでしたが、科学的な常識だけでは測れないことも多くありました。
あなたと一緒に私の物語を見ていきましょう。
子供の頃から
幼い頃から自分の顔を鏡で見るのが嫌でした。
私は1歳の頃に高熱が原因で聴力を失いました。
補聴器をつけるようになった私は残存聴力を活用した、聴覚口話訓練を始めました。
1990年代までは「手話は劣るもの」とされて、聴覚障害児教育では健常者並に発音と聞き取りができること、手話を使わないで口話だけでコミュニケーションができるようになる事が最上とされ、口話訓練、補聴器が登場してからは聴覚口話訓練が行われていました。
1990年代までの社会的な背景として、身体障害を克服することは「健常者に近づく、健常者並になる事」とされていました。
当時の障害者を差別する不条理さに対して、身体障害を克服して、健常者並になる事が最善と思われ、関係者全員がよかれと一生懸命になっていました。
しかし、2級の聴覚障害者が「健常者並になれる」ことは、両足を縛った状態で100メートルを10秒以内で走るようなものです。さらに自分の体重並の重量物を背負うようなものです。
こうした状態は結果として、華やかな結果を出す場合もあると同時に、当人にはきわめて強いストレスをもたらします。
当時のとにかく厳しく、叱咤することが正しい、とされてきた教育が当人のマインドにトラウマ(心因的外傷)やPTSD、家族関係に亀裂をもたらし、家族関係や成人してからの対人関係に問題が起こることが知られたのは1990年代後半になってからでした。
当時のやり方に批判はありますが、わたしの視点で書くと、明らかに偏った政治的な考え方を持つ人達が聾学校など教育の場や障害者運動に入り込み、本来の訓練方法をゆがめてしまったことも指摘しなければなりません。
さて、話を戻しましょう。
私は1973年に京都府立ろう学校幼稚部に入学しました。
通常は2級の聴覚障害児が訓練で電話ができるようになる事は困難です。
私は電話も100%ではないものの、声と条件次第ではできるようになりました。
ろう学校幼稚部では「理想」「希望の星」とも呼ばれ、事例としても紹介されたと聞きました。
ところが、後にこれらの話や「2級の聴覚障害児でも電話ができるようになった」話が一人歩きしたことで「災難」になります。
幼稚部を卒業した私は、「インテグレーション教育」として、聞こえる子供達に混じって地域の学校に通っていました。
学校と家では口話訓練と聴覚訓練の猛特訓が続いていました。
当時の補聴器は今と違って、何を言っているのかよくわからない事の方が多くありました。
「いつか医学が進歩して、耳が聞こえるようになる」
「頑張り続けていたらいつか幸せになれる」
両親もろう学校で教師達に言われたことを私に言って励ましてきました。幼い私はそれを無邪気に無意識に信じていました。
当時の両親や関係者には感謝しています。
私が「不幸な聴覚障害者」になる事をしたくなかったのが今は本当によくわかります。
幸いにも地域では聞こえる子供達と一緒に学ぶ事に理解はありましたが、私が何か行動しようとすると、心配してよかれと思ったのでしょうが、「耳が聞こえないからやめろ」と言われる事が多くありました。
物心ついた時は毎朝、鏡で自分の顔を見るのが嫌になっていました。
小学校6年の時の事です。仲良しの友達の1人から「前川、生徒会長やってみろよ」と言われました。友達は半分はおもしろがっていたのでしょうが、私もおもしろそうだと立候補しました。
しかし、担任の先生が「耳が聞こえないからできない」と思い込み、心配するあまり、家にまでやってきて私の両親に話をしました。
両親とともに「耳が聞こえないからやめなさい」と立候補を取り下げさせてきました。
よかれと思ったのでしょうが、こうしたことが繰り返され、「自分は耳が聞こえないからできないんだ」と思い、自己否定をすり込む事になってしまいました。
社会人のはじまり
中学校を卒業した私は岐阜県瑞浪市にある全寮制の高校、麗澤瑞浪高等学校(現麗澤瑞浪中学・高等学校)に入学しました。
地域の理解があった所から、それまでほとんど聴覚障害者と係わった事がなかった人達と係わって、「補聴器を付けたら聞こえるはず」なのに言葉でのコミュニケーションがうまくいかない事に戸惑いました。
自信がなくなり、先輩から厳しくされたことで、登校拒否にもなりました。後年、同窓会で会った先輩は「知らず申し訳なかった」といってくれました。
高校の先生もどうしたらいいのかわからず、「頑張れ」「聴覚障害は関係ない」と言われて、両親は戸惑う一方で、私がなかなか変われない事に、父親からは苛立って「努力が足りない」「お前が勝手だ」と責められました。
休暇の終りに「あんなしんどい重いをするのは嫌だ」と登校拒否を重ねて、卒業が危ぶまれたこともありました。
高校を卒業しても、どうしたいのかわからず、進路も見つかっていませんでしたが、ふとした事から私は日本最初のコンピュータ教育機関である京都コンピュータ学院を知り、入学しました。
当時はノートテイク制度もなく、高校の時の劣等感をバネに、自分で調べていくという事で、着々と積み重ねて、1993年、京都コンピュータ学院を卒業代表で卒業しました。
国家資格の情報処理技術者試験にも合格して、大阪にある中堅IT企業の日本システム技術株式会社に入社して、社会人としてのスタートを切りました。
これからの人生が順調にいくかのように見えました。
「社会人になって」に続く