社会人になって

社会人になるまで からの続き

「健聴者並」なのにできない?

 会社では社会人として、研究開発勤務など、プログラミングの様々な新規システムの導入に係わっていましたが、社内でのコミュニケーションが「健聴者並にできるはず」なのにできない事が問題になりました。

1993年、大阪堂島で

 仕事では聞き違いが多く、皆さんの足を引っ張ってしまった事もありました。

 当時は携帯メールやインターネットもまだなく、十分な連絡ができないため、「補聴器を付けたら聞こえるはずなのに…」と言われて私も、なぜ聞こえないのか、説明したらよいかわかりませんでした。

 私の聞こえは元々女性の高い声が聞こえづらいのですが、ある時、これが災いしました。

声をかけられた事に気付かず…

 同期の女子社員が数人が私に対してつっけんどんな対応をしてきました。後から知ったのですが、私がある人から後ろから声をかけられたのに気付かず、「声をかけたのに無視した」と思われたらしく、わるいことに「前川はわたしがブスだから無視した」と尾ひれをつけられていました。

 当時は私も周囲の人も「補聴器を付けたら聞こえるはず」だと全員が思い込んでいたのです。

 当時は聴覚障害で「後ろから声をかけられてもわからない事がある」といった情報も少なく、福祉のサポートとフォローも十分ではありませんでした。

 私もコミュニケーション技能が弱かったこともあり、思っても「そんな事を言うのはみっともない」と思い込み、気後れして説明できませんでした。

 頑張って「健常者並になる」ことが高い理想で、なかなかできない自分に腹を立てて、責めていました。その裏には「自分が聴覚障害者である事を認めたくなかった」「健常者並にならないといけない」葛藤がありました。

 社内では私に対して、困惑や反発も強く、ある日会社から「このまま君がこの会社で仕事を続けるのは難しい、考え直した方がいい」と辞める事になりました。

 両親は激怒して、父親は「お前が自分勝手からだ。懲戒免職にしてもらえ!」と本当に会社に来て「自分勝手な息子を懲戒免職にしてやってください」と私の上司に言いました。

 上司達はいくらなんでもそれはあまりだと口をそろえて、「息子さんが自分勝手とか、絶対にそんな事はありません」と反論してくれました。

 無理もありません。父は耳の聞こえない息子を、頑張って頑張って「健常者並に」育てて、ようやく就職して、将来を「保証」されて喜んでいたのが、会社から辞めた方がよいと言われた事に「裏切られた」と感じたのでしょう。

 私は自信を失い「身元預かり」となった部長から最後の仕事として、営業部で要望されていた営業情報管理データベースソフトウェアを、全員の「できないだろう」という予想に反して商品化できるレベルに完成させたあと、1996年3月末に会社を離れました。

 今、振り返ると当時は聴覚障害者に関する情報もサポートも少なく、私も聴覚障害に対してどうしたらよいか、具体的に説明できなかった状態だったのに、会社の皆さんは出来る限りのことをしてくれたと本当に感謝しています。

 その後、私はすぐ再就職できるだろうとおもったものの、甘くありませんでした。

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就職を断られ続けて

 求人を希望していた会社とコンタクトをとると「あなたは電話ができますか?」と断られつづけました。

 ハローワークに連絡してもらうだけで、履歴書を見ないで100回は断られたと記憶しています。その都度、両親からも「耳が聞こえないお前が悪い」「人格的に問題がある」と責められ、自分でも自分を責めていました。

 ようやく、1998年秋、福祉コンサルタント会社に就職しました。
 つぶれかけの会社で、事務所は5年以上掃除されず、床はゴミがごろごろ散らばり、整理されていない書類が山ほど積み上げられていました。

 あまりの環境の悪さに従業員が次々と辞めていたので、私が簡単に採用になったのです。

 仕事の引き継ぎもほとんど行われず、作業手順も仕事の流れもわからない状態でゼロから考えないといけませんでした。同じ頃に入った人があまりの環境のひどさに5日で辞めました。

 経済的にも苦しかった私は「前向きに行こう」と決めました。
 不平不満や文句を言うくらいなら、「環境を変えよう」と考えました。私はまず、掃除されていない事務所を掃除する事から始めました。

 後にこれを見ると、ただ環境を変えたり、頑張ったり、努力するだけでは変わらないことに気付きます。

 他の従業員は誰も嫌がってやらないので、始業前、業務時間が終った後、1人で床やトイレを掃除して、顔も鼻の穴も真っ黒になり、『どれだけ汚いのか…』と絶句しました。社内の整理されていなかった資料を整理していき、作業の流れを把握していきました。

 当時、3人が徹夜で泊まり込み、7日かかっていた調査データの入力とグラフ作成を楽にしてあげようと、工夫して、1人で2日でできるようにしました。工数単位で言う、21人日が2人日になったのです。

 IT技術者としての知識を活用して、仕事の流れを洗い出し、明確にして、作業の流れチャート図を作成しながら、当時普及しはじめていたパソコンの表計算ソフトやワープロソフトを独学で取得して、周囲の人達が自力でできるように教えていき、作業の省力化と短縮化を実現しました。

 その結果、停滞していた作業がはかどるようになり、会社が持ち直して、社長には喜ばれました。

 当時のわたしはもっと頑張ろう、もっと努力しよう、そうしたら報われる、そして幸せになれると信じていました。

 会社では後に国のモデル事業にもなったICカードを使った医療情報システム開発を九州の宮崎と京都を往復して行い、並行して社内ネットワーク管理やホームページ作成、DTP、社内パソコン教室、面接、新人社員の教育も行っていました。

 写真は2002年頃のものですが、ビア樽状に太っていました。

2002年奈良県で とても太っているのがわかる

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過労に

 会社は一時期、労働環境が改善されたにも係わらず、また悪くなっていました。ずさんな経営と無理な業務になり、作業管理も「とにかく急げばよい」となり、出来ていませんでした。

 掃除もまたできなくなり、社内は汚くなっていきました。

 経営者は「生産性が悪いから残業手当は出さない」「いくらでも替えはいる」と責任を転嫁して、無理なプレッシャーをかけていました。

 経営者は現状ではできない事を単純に「やればできる」と言い張ったり、言い訳や嘘で作業が混乱することがよくありました。

 腹を立てて、引き継ぎなしで辞めていく人も多く、従業員が5~8人程度、多い時は13人いた会社でしたが、私が在籍していた5年間だけでも50人以上が入れ替わっていきました。

 こうなると仕事のできる人が育たないため、経験のある私が抜けた穴をカバーしなければなりません。

 実際、後輩が1つの仕事を手がけていく間に3つ仕事を並行で進めて、仕上げ、さらに後輩の仕事のチェックも行うといったこともしていました。

 残業時間は100時間を越えて、勤務時間が月間320時間以上、400時間になる月もありました。

 さらに「経営が苦しいから」と給料を下げられて、私は辞めても行く場所がない…と耐えていました。

 私は会社の言いなりになるのではなく、対等の立場ではっきり言うことができませんでした。会社を辞めて、また次々と断られる、みじめな就職活動をすることに怖れを感じていたためです。

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月給50万円?

 「前川は月給50万円もらっている」というあり得ないデマがとんだのもこの頃でした。

 見方を変えると月給50万円もらってもおかしくない仕事をしていたともいえます。
 このデマが出た頃はシステム開発で九州へ単独で出張して、お客様との調整に回り帰社したら、社内の仕事を一心にこなすこともありました。

 実は32万円の給料が36万円以上に昇給する予定だったのが、会社の収益が減ったことを口上に、28万円に減額されていました。

 当時の私はコミュニケーション能力が低かったこと、『お金について話をすることはみっともない』と思い込み、反論しなかったこと、後輩達からは「自分より多くもらっている」とやっかみと妬みを買いました。

 次第に精神的にも余裕が無くなり、駅のホームに立つと「電車に飛び込んだら楽になれるだろうな」と何度も思いました。その都度、踏みとどまりました。

 後から「弱いから」とか「がんばっていない」からではなく、人間は精神的に追い込まれると本当にそんな感情になるのだと気付きました。

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退職へ

 2003年6月、ずさんな経営と無理な業務に対して、従業員全員が反発し、私と3名をのこし、全員が辞めました。

 さらに私の耳が聞こえない事をいいことに、私の給料をさらに下げる際、私が会社を辞めたら行き場がないだろうと弱みにつけ込んで、全員で給料を下げて、電話番を雇うと嘘をついてきました。

 私の業務はそのまま、給料の額は当時で20万円、新人と同じかそれ以下に下げられました。仕事ができないというならともかく、人の倍の実績を上げて、この仕打ちなのかと、暗澹たる気持ちになりました。

 残っていた後輩の1人が、この話をきいて、私の下がった分が自分たちの給料アップ分になっていたことに気づき、後輩2人が申し訳ないことをしてしまったと事実を告げて、謝罪してきました。

 後輩たちと話をしていくと、後輩達は社長と交渉した結果、増やされて40万円になっていたこと、社長や上司たちが自分の報酬は「経費」でしっかり確保していることもわかりました。

 後輩たちはこんな会社にいるわけにはいかないと辞めることを決めて、前川さんも一緒に辞めませんかと誘われました。

 ありがたいけど、今、自分が手掛けている仕事を放り出したら、お客様に不義理をすることになると堪えました。今、思うと、誠実でない人間達に対して、そんな事をする義理はありませんが。

 まもなく、後輩たちが会社をやめ、業務に対応できる社員が私ただ1人になり、仕事が増えました。

 社長らは「きっとサービス残業をしてくれる」と期待していたようですが、私はきっちり定時に帰るようにしました。

 5年ぶりに定時に退社した時、電車の車内から夕焼けを見て、感じた充実感はこういうものかと感激しました。

 会社はそれでもずさんな経営をそのままにしていたこと、私が手がけていた仕事が終わったことから、会社を2003年末に辞めました。

 経営者に「不当に下げた給料や未払いの残業分は誠意を持ってきちんと払ってください」と交渉を求めましたが、「前川は耳が聞こえないから仕事ができなかった」と事実ではないことを主張してきたため、労働紛争となり、裁判を経験しました。

 裁判では経営者が従業員に見せようとしなかった決算書を出したとき、法廷の裁判官、弁護士全員が決算書の数字を疑いました。

 「いったいなんだ!この無茶苦茶な数字は?!」

 「粉飾決算」といってもいい状態でした。
 円卓テーブルで、全員が呆れました。

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この会社で学んだ事

 私がこの会社で学んだ事は多くありました。
 とくに問題のある会社、今でいう単に利潤のみ求めて、社員を犠牲にする「ブラック企業」の特徴を学べたことは大きな収穫でした。

 ハンデに言い訳をしないで、最大限にスキルをアップするための工夫、言い訳をしない事、仕事の流れを洗い出して、作業の進行管理マネジメント、何よりも作業進行管理や労務管理、文書化する事の重要性を実感しました。

 総務を担当していた人が病気になり辞めて、穴が空いてしまった短期間、私が出金などの伝票管理を代行したのですが、軽作業と思われがちな総務の仕事もおろそかにできるものではないということ。

 仕事で気付いたのですが、最初は思うようにできなくても、コミュニケーションをじっくりとる人ほど、問題点の洗い出しとフィードバックが順調なため、次第に伸びていきました。

 そういうコミュニケーションで気付いたことや発見したことなど、 筆談も交えて少しだけ書いた話など、ちょっとした事でも文書化して、閲覧できるようにしておくことで次から作業スピードが上がって、全員が楽になることに気付きました。

 一方、やたらと「合理化」と耳触りのいい言葉を主張して、仕事ができるように見えても、コミュニケーションを粗雑にしたり、業務の流れを無視して仕事を進めている人は、コミュニケーションが雑になりがちで、次第に仕事ができなくなって、詰まっていました。

 私も他の人とコミュニケーションを十分にとらなかったことで、聴覚障害者である私に向けられた事実でないやっかみに対して「態度で伝わるだろう」と思い、毅然とした行動をとらなかったことで、後輩達に誤った行動を取らせてしまったことも痛い経験でした。

 経営者が従業員の信用を無くすのはどんな時か、労働紛争での裁判の進め方や弁護士の話など、本当に貴重な経験ができたと感謝しています。

 今思うと、私がそういう会社に入り、迷わず、やめられなかったのも聴覚障害で自己否定、将来への不安や恐れを抱えていたことが根底にあったからであり、今振り返ると、「自己責任じゃないですか?」と言われても、同意するでしょう。

 思いがけない転機が私を待っていました。

 「起業へ」 続く