聾や手話にアイデンティをおくことは誤り

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前回の健聴者の中に放り出されたら、自信をなくす?で、驚く事にろう学校では健聴者とのコミュニケーション方法については教えていないことを説明しました。

もし、聴覚障害をよく知らない健聴者の中に放り出されたら、コミュニケーション不全に陥るか、自信をなくす可能性、職場放棄もあることを書きました。

話は反響が大きく、読者や友人から感想をいただきました。
ありがとうございます。

聾や難聴、聴覚障害者である自分を肯定しようという話ならまだわかりますが、聾であることや手話にアイデンティをおくのはまったくわかりません。

「ろう文化」との絡みからか、よく出てくる演劇の「ろうの国」について説明しましょう。

ネット上で「ろうの国」に関する意見を見かけますが、本気で「ろう者の国を作ろう!」と考えているわけではありません。早とちりで混同されている方もいますが、「ろうの国」と「ろう文化」はまったく別ものです。

もとは手話を使った演劇で使われたタイトルです。
劇そのものを直に見たことがないので、誤りがあることを前提に書きます。

「ろう文化」は1995年に出たものですが、「ろうの国」はそれより前から上演されていました。

わたしがこの劇が紹介されていた本で読んだうろ覚えのあらすじで書くと、コミュニケーションが思うように通じないという苦しみ、「もし、手話だけで話が通じる国があったらどれだけ安心できて、幸せだろうか」と主張するものでした。

「安心して手話でコミュニケーションができるようになりたい」という、ろう者の切実な願いを劇にしたものなので、「ろう文化」の話とは別ものと考えた方がいいでしょう。

ただ、感傷に浸るのはいいとしても、現実に手話でコミュニケーションができるようになれば、多くの問題は解決できるでしょうか?

できるなら、なぜ手話が一般的に広がらないのかを考えた事があるのだろうか?と思います。

市町村で行われている手話講座で手話を学ぼうと初めて参加する人は多くても、なかなか続かない状態です。

わたしの地元でも手話サークルに参加するのは講座に参加した人のうち、10人に1人が参加してくれればいい方だと聞きました。

それもだんだんと来なくなります。
理由をたずねると「思ったより面倒」「つまらない」「仕事が忙しい」などです。

現状で手話を学ぶことが自分にとってメリットがない、さらに当事者が「手話を覚えてください」「団体に入ってください」と、受け身の状態であれば、自分の時間を割いてまで手話を覚えようという人が少ないのは当然だと思うのです。

現在のこのような混乱の原因は「ろう文化」で対象者を限定して、聾であることや、聴覚口話訓練を認めなかったり、日本手話を使う事をアイデンティティとしてしまったことに起因しているのではないかと思います。

実際にろう者のみなさんと話をすると、アイデンティの使い方がおかしいのではないか?と思うような人もいることに気づきます。

わたし自身はどうか?と問いかけていますが、この場合のアイデンティは次のような意味です。

「ろう者としての誇り」
「日本手話が本当の自分だ」
「頑張って努力するのが本当の自分だ」
「口話を使っているのが本当の自分だ」

一般的な感覚で言えば、明らかにヘンです。

「アイデンティティ」の使われ方を見ると、心理学用語の「これこそ本当の自分だ」の「アイデンティティ(自己同一性)」ではないことに気づきます。

多くが異なる意味で使われていることに気づきます。

じゃあ、何の意味だろうと考えていたら、この話を読まれた友人のKさんが教えてくれたのですが、心理学用語で『セルフ・ハンディキャッピング』がそれに近いそうです。

Kさん、ありがとうございます。

人間には様々な不利な条件があり、物事がうまくいかないとき
人間はこのハンデを理由として自己弁護に走り、「うまくいかない自分」を正当化することがあります。

自分を成功しにくくすること、自分を貶めるようなことによって、自分を守っている場合があります。

これはわたしも心あたりがあります。

なぜなら、うまくいかない「環境的、外的」な要因、理由をあらかじめ設けておくことで、実際に失敗したときに、自分の能力の問題ではなくて、外的、環境的な問題があったから失敗したのだと結論付けることで、自分自身の根本的な問題と向きあわずにすむのだそうです。

自分自身の根本的な問題と向きあわなかったら、成長と発展はないんですよね。

ただ、注意したいのは『セルフ・ハンディキャッピング』で「うまくいかない自分」を正当化するのは意識的にしているのではなく、多くは自己肯定感の低さなど複雑なからみから、無意識に選択してしまっているのだと思います。

見て来たように「アイデンティティ」が本来の意味とは異なる「うまくいかない自分」を正当化するような使われ方をされている以上、「ろう文化宣言」で主張している「ろう文化」はただの「砂上の楼閣」でしかないと気づきます。

物事を筋立てて考えれば、「ろう文化」の位置づけがおかしいことに気づくんですね。

その「ろう文化宣言」が生まれた大元をたどれば、昔は社会にある「障害」つまり、社会にある壁を当事者の努力と頑張りで健常者に近づける事で解決しようとしてきたことの反動だと思うのです。

しかし、口話で話せるようになった子供は音が小さく聞こえる伝音性難聴であったこと、聴覚口話訓練は残存聴力がまったくない場合は使い物にならないなど、聞こえの問題の解決にはほど遠いことがわかってきました。

当時の口話訓練は「無知」から、ろう者が頑張って努力して、健常者に近づけば、それで問題が解決できると勘違いしていたのです。
あまりの行き過ぎに「口話が不向きな生徒にまでやらせたらダメですよ」と、文部大臣からも注意が出されています。

また、対人関係などで感情のコントロールができない事から、他人に対して攻撃的な態度になってしまう話も多く、自分でもわかっているけれど、なんとかしたいと思っている人は多い。

とくに難聴・聴覚障害が一般の人とコミュニケーション不全状態に陥りやすく、強いストレスなどに悩むなどの「こころの問題」は深い問題です。

この問題はこれまでの口話教育も手話教育でも解決できていません。

ろう学校では健聴者とのコミュニケーション方法については教えていないことを書きましたが、これは教育カリキュラムの限界です。

それ以上、聞こえる人との関わり、コミュニケーション技法、考え方など自ら学ぶしかないのが現状です。

なのに自分で学ぼうとしない人が多い、これはなぜだろうかと考えました。

現在の結果としてどんな問題が起こっているか、そしてどんな考え方から来ているのか、前提となる知識がないと、わかりにくいものです。

読まれるあなたのために少し整理して書いていきましょう。
そして、段階ごとにいっしょに考えましょう。

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