手話は言語としては発展途上

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前回の聞こえないだけでなく「精神面への影響」が大きいで書いた「国民全員が手話を覚えることを義務にするといい」という話についてしましょう。

実は当事者からみたら、これほど楽なことはありません。(笑)

手話を覚えてくれる人が増えたらいいけれども、手話を覚えることを義務にすることは不可能です。

目の見えない人は手話が見えないですよね?
手が不自由な人はできません。
手話は両手や表情で表すこともあるので、それができない人はどうなるのかという問題が出てきます。

この世の常にどこかが矛盾しているパズルゲームのようなもので、わたしたちはどこかで折り合いをつけつつ、その時点で不完全であっても最善と考えられる手段と方向で問題を解決していく必要があります。

社会が完全なものになってくれることを待っていたら、人生終了です。

現に難聴メンタルコーチでセッションを受けた方がゆっくりと動き出しているのに対して、難聴者協会では何十年も前の発想で止まってしまってる方もいます。

ろう者が「手話を覚えてください」と主張したり、「手話言語法制定運動」をすすめています。私は否定しませんが、手話言語法制定のモデル文書の内容に事実を誤認しかねない記述が見られる現状では賛同できません。

誤解しないでくださいね。

ここで投げかけるのは、漢字と同じように、手話も言語としては発展途上にあるのではないか?という視点で考える必要があるということです。

我が国の漢字は4世紀末から5世紀初め頃に大陸から渡来して1600年以上の歳月を経て、言語記号として、現在の形になっていった歴史があります。

手話も昔は地域毎に表現もバラバラのローカル言語で原始的な表現しかなかったものを系統だった言語表記の手段として、明治の初めに我が国初の聾学校創立者である古川太四郎先生が考案してから、21世紀の今日まで100年ちょっとの歴史しかないことを考えると「言語としては発展途上」にあるともいえます。

古代の日本語に長い時間をかけて、漢字、ひらがなやカタカナを取り込んでいった結果、日本語の表現の幅が広がったように話言葉に手話を取り込んだら表現の幅が広がるのではないでしょうか?

その手話の現実ですが、市町村で行われる初歩的な手話講習会で手話を日常的に使えるようになれる人は多くないのが現状です。

1995年にテレビドラマ「愛していると言ってくれ」がヒットしたことがあります。

この時、各地の手話教室は多くの若い女性が手話を覚えようと来ました。

ドラマの主人公を演じた俳優が格好良いことから、格好良いろう者がいる、とおもいきや、現実にはいないことに気づき、2回目からは半分くらい来なくなりました。(笑)

反対にドラマに手話を使う美人の女優さんが出たら、手話教室に独身男性が殺到したなんてこともあります。こちらの男性も同じく現実に気づきます。

現在は手話を使うテレビドラマはろう者が演じないのはおかしいなどの批判もあり、下火になっています。

「手話を覚えたいけれど・・・」という方は多くいます。
企業でも初歩的な手話講座を設けているところもあります。

テレビドラマは手話を知ってもらうなどのメリットもあるし、入口としては悪くないのですが、関心をもってもらった方にどう続けてもらうかの視点が抜け落ちているなと思うのです。

手話の社会地位が低いのではなく、一般の人には手話が使えるようになることの優先度は高くないのが現状です。

手話講座も30人に1人が簡単な日常会話程度の手話ができるレベルになればいい状態で、さらに50人に1人が手話サークルで続けばいい方です。

手話通訳のような方でも「何年も続けないと言語としても難しい」と言いますし、福祉制度や聞こえる方の善意に期待するだけでは続かないのも現実です。

でも、ビジュアル面などイマイチな人が呼びかけるより、美男美女が笑顔で手話を覚えませんか?というなら張り切って続くかもしれません。

実際、「電話する」などの単語が保険のコマーシャルで美人の女優さんが笑顔で使った事から、ひろがった例があります。

キレイごとや理屈ではいえますが、人間はかわいいもの、楽しそうなものを選ぶ生き物です。わたしもです。(笑)

こうした現実に目を向けず、手話と口話はどちらが優れているか、「ろう文化宣言」で「手話は日本手話が聾者の言語だ」など、学者の難しい屁理屈や、完全無欠の完璧なものにしようと「役に立たない論争」で時間の無駄を重ねてしまったのではないかと思います。

話がそれました。
次回は手話と口話とどちらも大切なこと、そして現在について書きましょう。

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