「手話の利用は黙認されていた」のは本当か?

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前回なぜ口話教育が始まったのか3まで見て来たように、口話教育が日本語の読み書きを獲得させる手段であったのが「社会の無知・無理解」からなんとしても口話を取得させたいとするあまり、訓練さえすれば、健聴者並になれるという錯覚を招いてしまった面もありました。

とはいえ、少なくとも京都府立聾学校では幼稚部をのぞき1975年頃は手話の使用は厳密には禁止されていませんでした。

もちろん、口話法で聴覚障害の問題を克服できると信じて、手話を認めなかった人達がいたのも事実です。

「手話の利用は黙認されていた」という話もありますが、聴覚口話訓練で発音を視覚的に表すためのサインであるキュード・スピーチを考案された一人である京都府立聾学校幼稚部の馬場喜美子先生は手話を使っていました。

学年が別だったのでわたしの担任ではなかったけれど、母とよく話をしていました。

話をしながら手話を使われるのですが、その指さばきは幼かったわたしも真似ていたのを覚えていますし、当時を知る先生も馬場先生の手話は本当にきれいだったと話していました。

手話は何年も相当練習しないと、きれいにできないものです。手話通訳の方やろう者でもすっと読める人と読めない人もいるのです。

前述した岡本稲丸先生は聾学校にいた頃から手話を使っていたと話されていました。赴任された昭和35年(1960年)頃に当時の校長から「手話は覚えなくてよい」と言われました。しかし、手話を使わないのでは生徒と話ができないため、実際には手話も使っていました。

口話で話が可能になったのは高出力補聴器が出始めた、1970年代以降の聴覚口話教育で育った世代からだったそうです。

本当に手話を学校全体で禁止したり、黙認していたら、聾学校幼稚部教師であり、聴覚口話教育を行っていた先生が昭和50年(1975)年頃に手話を使えるはずがありません。

この事実から、ろう学校で手話を使うことが禁止されたり、生徒の手話使用を黙認していたという話はつじつまが合わないのです。

過去のやり方に行き過ぎがあったことは否定できませんが、聾学校といっても全部が同じようにしていたわけではなく、都道府県、学校や先生、親によって考え方や方針などの違いがありました。

このように時代や地域による違いも含めて話をしないと、一部であった話があたかも全体でそうであったかのような誤った話がプロバガンダとして広がれば、社会的な不信を招くことになります。

こうした話は一時的には注目を浴びましたが、後は不毛な話ばかりでした。
傍目から見ていても地域との協調性を無視した後ろ向きな話をする様子は見ていても見苦しいものです。

過去の事実を誇大的に宣伝して、

「我々はマイノリティだ!差別されている!社会的な被害者だ!」
「ケンリガー」

と主張するのは見ていても見苦しいものです。

社会的弱者であることを武器にしたプロバガンダ的な主張は社会に受け入れられるどころか、反感を買い、新たな「差別」が出る事になります。
そればかりか、別の形で当事者の自己肯定感を下げることにつながりかねません。

手話の普及を真剣に考えるなら、「被害者」の主張ではなく、前向きな話をしていく必要があるのではないでしょうか?

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