なぜ口話教育が始まったのか3

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なぜ口話教育が始まったのか2の続きです。

聾者が生きていくにはきわめてハードルが高かった時代に少しでも健聴者に近づくことで社会の偏見と差別をなくしたいと当時の関係者達が限られた条件下で見いだした答えが口話教育でした。

偏見をなくしたいために、よかれと思っていた事が、結果として思うようにいかなかったりと、悲しい矛盾も生み出したのは事実です。

当時の社会的背景や関係者の話を知ると、社会にあった偏見をなくしたかったことがそれだけ切実だったことが痛いほど伝わってきます。

私は先人の皆さんの思いを否定的に見るのではなく、肯定的に見るためにも、公平に見ること、丁寧に伝える工夫や努力も大切だと思います。

私が残念なのは、大きな声で一方的に批判する意見が目立ち、その当時の社会の状況やなぜそれをしようとしたのか、「想い」を伝えようとする人が少ないと言う事です。

大声で批判しても社会の聴覚障害者への理解は進むどころか、軽蔑されかねません。

ここで「手話」という言葉に触れましょう。

手話通訳の先駆けである京都府立聾学校の伊東雋祐先生をはじめ、昭和20~30年代を知る人の話や著書では、昭和20~30年代は「手話」は「手まね」とも呼ばれていました。

我が国で初めてろう教育を始めた古河太四郎先生は当時考案した日本語を手指で表現することを「手勢(しゅせい)」と呼称していましたが、使いにくかったようです。

手話を学ぶと気づきますが、語彙の多くが「手の動きで物事を表現する=手の動きで動作をまねる」なのです。

この「手まね」の呼称が侮蔑的な意味合いで使われてきたといい、蔑称から「ろう者は社会から迫害された!」と主張する人もいます。

私もセンスのある呼び方ではない、とは思いますが、実際に当時の聾学校でも「手まね」とも呼んでいるのですね。

当時の人達が「手まね」と呼んだのは現在の人が電子レンジを使うのを「チンする」と言うのに近い感覚で、そうおかしなものではないと思うのです。

当時の一部の無知な人たちに手話に対する偏見があったのは否定はできませんが、世界史を見ると有無を言わさず、異民族に侵略され、殺されたり、奴隷にされるような「迫害」の事例も多くあります。

コミュニケーション不全のため、生きていくことが困難だった実例もあるけれど、日本では聴覚障害者が侵略され、殺されたり、奴隷にされるような「迫害」はなかったのが現実です。

「偏見」というのも、コミュニケーションができないことからくる、誤解や当事者の激しい思い込みもあったのではないかと思います。また、聞こえる人も自分がそんなことをしているとは気づいていない場合もあります。

わたしの経験を書きましょう。

わたしが京都府立聾学校幼稚部に在籍していた1970年代は、箱形の補聴器が主でしたが、補聴器をつけるとじろじろ見られるから嫌だと子供に外させた親もいたとききました。

ところが、高校で初めて補聴器を見て「ウォークマンみたいでカッコイイ」といってくる生徒が多くいたのです。

当時は聞こえない子供が聞こえる子供と一緒に地域の小中学校に通うインテグレーション教育はまだ序の口でしたから、全員が聴覚障害者と接するのは私が初めてでした。

中には何も知らないことから、補聴器や口話をからかってきた同級生もいましたが、20年くらい経って同窓会で「当時は知らずに申し訳なかった」と謝ってきました。

当時、口を隠したらどうなるか興味本位で口をかくしたそうですが、私は「口が見えないとわからないよ、口元が見えるようにしてよ」と言っただけで、忘れていました。

「え、そうだったのかい?」と笑い話になりましたが、彼いわく店頭で聴覚障害者が来店した時、補聴器をつけていた私の事を思いだし、どうすればいいかを考えるのだそうです。

私は彼の「先生」になっていたのですね。好奇心を入口として「気づく、知る」ということもあるんですね。

このことから、じろじろ見られるから「偏見」と思っていたのが、実際は知らないこと、単なる好奇心から「あれはなんだろう?」と見る人も多かったのではないかと思います。

手話も同じで、自分に自信が持てず、外で手話を使うと変な人と思われる、嫌われるのではないかと思い込み、自信をもって使えなかった人も多かったのではないか思います。

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