なぜ口話教育が始まったのか2

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西川吉之助先生が我が子はま子に口話教育を始めた理由は次の話を読みましょう。

「手真似により筆談に依らなければ、他と交渉のできない濱子を他人の前に同伴する場合直ちに人は濱子を唖と賎しむでせう。劣者弱者欠陥者に同情の念の薄いのが日本人です。

出来るならば私は我が愛する濱子に此の辱を受けさせたく有りませんのみならず進んで誰とでも談笑し普通学校にも学びえられ智力が許すならば高等学校にも学びえられ智力が許すならば高等の学問も修めさせて世人から欠陥を持つ少女として取扱はれない様にしてやりたいのが私の希望です。

左様とするのは発音法に依つて教育するのが一法ある計りだと存じました」(『口話式聾教育』1925年)

同じ頃に口話教育を推進した名古屋市立聾唖学校校長の橋本徳一先生は手話で学生の就職を企業に依頼して「ものを言えないものはいらない」と断られたことから、手話教育に失望して、口話教育への取り組みを始めています。

「そうさせた要因」が当時の社会にあったことがよくわかります。
さらに当時は口話教育には残存聴力が必要な事もよくわかっていませんでした。

聴覚口話訓練を受けた当事者の、現在の感覚で書いてしまいますが、当時の現状を見て、我が子を思う親として「劣者弱者欠陥者に同情の念の薄い日本人」と言わしめたのではないかと思うのです。

実際、現在でも聴覚障害を持つ多くの親はこの子を育てられるだろうか、子供が大きくなったら社会に出てうまくやっていけるだろうかと自信がもてず、ストレスをためこんだり、神経質になることも多くあります。

娘である西川はま子さんは高性能な補聴器もなかった当時、口話教育に成功したのは、現在なら、障害者手帳の認定には該当しない聴力レベルの伝音性難聴であり、口話を取得可能な残存聴力があったと言われます。

成人してから電話もできたという話もあります。

わたしのように聴覚感覚が機能しない感音性難聴と異なり、外耳道などの変形が原因である伝音性難聴であれば、音が小さく聞こえるだけなので、音源に近いほど聞き取りは容易になります。

当時、西川吉之助先生の尽力もそうですが、これによって口話教育で聴覚障害に対する社会の偏見を解決できると信じて、口話教育普及のために、1925年(大正14年)に滋賀県立聾学校の前身となる、西川聾口話教育研究所を設立して手弁当で全国を回りました。

西川先生の家が裕福で篤志家としての面もあったと思います。

しかし、自分の予想に反して、口話が思うようにできない子供が多いことに悩んでいたと言われます。裕福であった家の財産を使い果たしてしまい、昭和15年に自死しました。遺書はなかったと言われます。

西川吉之助先生を「自業自得」などと心ない事を言う、手話教育を推進する人もいますが、娘はま子さんの将来への心配面からはじまったとはいえ、口話教育を研究し、滋賀県立聾学校の前身を創立された事は大きな功績です。

そして、はま子さんも昭和32年に急病で京都府八幡市内の病院に入院して、そのまま41歳と若くして亡くなりました。

本人が残された文章が少ないので、亡くなられた当時の状況、文章の伝聞や41歳というわりに老けて見える写真からの憶測ですが、
残存聴力があったとはいえ、聞こえる人との人間関係がうまく構築できないなどの悩みがあったと思います。

現在のように小型補聴器もなく、人の声がよく聞こえないこと、現在の難聴・聴覚障害者に多い、コミュニケーション不全からくる緊張感、強烈なストレスを抱えていたと思われます。

実際、前の私もそうでしたが、強烈なストレスのため、実際の年齢より老けて見えている人は多くいます。

参考
前川修寛のエピソード 起業へ

昭和初期の当時の日本の状況についても少し書きます。
日本がまだ貧しかったにもかかわらず、「合併」された韓国や台湾の経営に国内のお金が持ち出しになり、軍備も整えていかなけれなならない状態でした。

国内の公共インフラ整備も後回しにされ、公共による福祉制度は後回しになり、篤志家による支援くらいしかなく、それでも十分に整備できていなかった現状もあります。

そんな中で社会の偏見を解決することがいかに大変かよくわかります。

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