起業へ

社会人になるまで からの続き

不条理さに腹を立てる

 会社にいる時、両親は「一生懸命やっている」と喜んでいました。しかし、2003年末に会社を辞めてから、何かある都度、両親は「お前が勝手だから」「経営者の言う事を聞かないお前が悪い」と散々に責められていました。

 当時の私はハローワークを通じて面接の話をしても、片っ端から断られ、聴覚障害者に対する不条理さの経験と、「高い理想の自分」になれない事に腹を立てて、「怒り」をますます感じていました。

「聴覚障害者が健聴者と対等に渡り合えるようにしていきたい!」

 と思っていました。

 2004年4月末、異業種交流会で知り合ったS氏が発表していた「中酸性ミネラル水」を使った商品の話を聞きました。その頃は自分が補聴器を使っていて15年間悩まされていた外耳炎、耳垢がたまりやすいなど不快な耳の問題を抱えていました。

 当時は適切なケア商品がありませんでした。

 その解消につながるのではないかと、S氏にお願いして、自分で試したところ、2週間で改善しました。ひきつづき、同じように補聴器を使っている知人に説明して、モニターとして使ってもらったところ、いずれも私と同じように不快な耳の問題で困っており、解消したことを知りました。

 S氏は乗り気ではありませんでしたが、私は必ず役に立つと確信して薬品や化学成分を一切含まない耳のケア商品として、開発・商品化に向けて、動き出しました。

 両親は私が説明しても「そんなものどこにでもある」と否定して責めてきました。話の中で「いつか耳が聞こえるようになるはず」「これだけして、健聴者並になれない息子が悪い」と決めつけていた事など、気付きました。

 私は両親の期待に添えない事から、父に「家を出て行け」と言われ、実家を離れました。2004年8月のことでした。

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心臓停止一歩前で

 前の会社への対処について相談していた弁護士や創業塾で一緒になった社会保険労務士の河陽輝さんが私の勤務データを見て、「前川さん、身体をこわしていませんか?」と尋ねてこられました。

 この言葉を裏付けるものとして、2004年4月に地元でプロのカメラマンが撮影した写真があります。

2004年4月の写真2006年10月の写真

 左が2004年4月の写真で、右が身体の健康を取り戻した2006年10月の免許証の写真です。よく「反対ではないか」と言われますが、お肌も髪の毛も雰囲気も全て違い、2004年の写真が「老けている」のがよくわかります。

 こんな人だと、近寄りたくないし、あっちに行ってくれと言うでしょう。本当、マイナスの感情エネルギーを出していました。

 2004年当時は日中はぐったりして、足がつったり、夜は眠れない事が続いていました。感情の起伏も激しく、必要以上に人の目を気にして、人と関わることを恐れていました。

 長い間の過労とストレスから来るうつとパニック、繰り返し起こる精神的な問題でPTSDになっていたのは間違いありません。

 2004年9月、私が京都四条の献血センターで献血しようとした時、前検査で「血液検査に行ってください」と言われ、文句を言うと怖い顔で「今すぐに血液検査に行きなさい!今すぐ!」と言われて、地元長岡京市の片岡診療所で血液検査を受けました。

 数日して片岡先生が「貧血状態」である事、カリウム値が異常値を示している事を説明してくれた後、厳しい顔をして黙ってしまいました。

 前の会社で過労で不健康な生活をしていたのが原因で、いつ心臓が止まってもおかしくない状態でした。

 私は自分が「死にかけている」現実をなかなか認められませんでした。
 
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健康を取り戻していく

 当時、開発を進めていた耳のケア商品の原料となる「中酸性ミネラル水」が元々健康飲料としても開発されており、健康を取り戻した事例があったことを知り、ダメもとで自腹で購入して、飲み始めました。

 「中酸性ミネラル水」は錠剤ミネラルと異なり、イオン化したミネラルが「濃い濃度」で溶解しているのが特徴で、「ミネラルが濃い水」としてこのため、適切な殺菌能力と皮膚細胞の再生の活性化を促すだけでなく、飲用すると、体内で腸で吸収されます。

 このミネラル溶液を多く、積極的に摂取していったのが、私が健康を取り戻すはじめの一歩になりました。

 私は生半可な知識で終わるのではなく、人体に必須である微量金属としてのミネラルと「食の改善」について、市販のタブレット錠剤のミネラルとどう違うか、薬剤の知識も併せて研究しながら、研究していきました。

 ミネラルの研究を通じて、原子やエネルギーの概念についても研究しました。現在、エネルギーの事をわかりやすく解説するのに役立っていますから不思議なものです。

 前は仕事に追われて、コンビニ弁当やファーストフードを多く食べていましたが、そうした食生活を改めて、地場地産のお米や野菜を多く食べるようにして、昔ながらの食事に近づけていきました。

 地元の朝市に出て、農家のお婆ちゃんに声をかけられたことから、次第にお婆ちゃん達とも仲良くなり、お米や野菜についていろいろと教えてもらうようになりました。

以前は100キロ台だった体重を20キロ減らしていった

 ミネラル補給だけでは限界もあることにも気づき、約3年かけて試行錯誤して、食生活も含めて生活全体を変えて、健康を取り戻していきました。当時は体重が約100キロあったのを20キロ落としていきました。

 前はしょっちゅう風邪をひいて、医者にかかり、花粉症でマスクが手放せませんでした。年間7~8万円以上は費やしていたはずです。

 これを書いた2011年3月、花粉症はなくなり、薬は全く飲まず、支払った医療費は総額で年間7、000円未満になりました。医療費が10分の1になったことになります。

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起業、販売へ

 私が考案した耳のケア商品の開発は市場調査や営業で難航しながらも、開発が進められていました。S氏、途中から加わったT氏らは乗り気ではありませんでした。「どうせ売れない」と決めつけていましたが、市場調査の結果、売れそうになるととたんに目の色を変えてきました。

 独立行政法人中小企業基盤整備機構のアドバイザー堀正美先生のアドバイスと製造で協力してくれる薬品会社の紹介を受けて製品化を進めていました。順調にいけば、2億円以上、最終的には25億円の市場になる事を見込んでいました。

 前例がない商品のため、販路開拓では私の飛び込み営業で次々と断られながらも、第一号店が決まりました。2004年12月、私が考案した耳のケア商品はデビューしました。

耳のケア商品 2004年頃

 2005年5月、中小企業基盤整備機構の堀先生の協力で有限会社が設立され、私は取締役となりました。S氏がビルへの転入費用100万円を用意するはずでしたが、事前になって、「用意できないので立て替えて欲しい」と頼まれて貸しました。

 当時のライブドア社長の堀江貴文さんにもインターネットを通じて、耳のケア商品を紹介してみました。関心を持ってくださった堀江さんがホームページをご覧になったのをきっかけに、当時のライブドア社の通販サイトに出店している販売店での取り扱いが決まりました。

 堀江さんもブログで紹介してくださって、ホームページをご覧になった方から商談が入りました。

 韓国の会社からも引き合いが入り、韓国での販売が決まりました。

2006年韓国でも販売

ライブドア事件

 前後して、2006年1月、ライブドア事件が起こり、堀江貴文さんは証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで逮捕されました。当時のマスコミはそれまで堀江さんを時代の寵児ともてはやしていたのが手の平を変えて、徹底的に叩いていました。

 S氏、T氏は私に「堀江さんの写真と紹介してくれた話をホームページから削除しろ!早く!」と強く言ってきました。マスコミがやってくるからと言いました。しかし、それとこれとは別です。
 全国デビューのきっかけをつくってくれた恩人を簡単に切り捨てるのは道理が通りません。

 私に堀江さんの写真はなにが何でも削除しろ!というので、やむなく削除しましたが、商品を紹介してくれた話はどうしても削除するなら、堀江さんに直接会って詫びてくださいとはねつけました。

 S氏は私が作った堀江さんとのつながりを自分のパイプだ、あなたは口を出してはいけないと称して、販売店の社長と組んでいろいろとうごいていました。今ならおかしいとわかりますが、当時はよくわからず黙るしかありませんでした。

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全国デビューのはずが

 2006年3月、営業拡大を狙って、大手スーパーでの全国販売が決まっていました。私がテレビ局に耳のケア商品の話を話した、アナウンサーがホームページをご覧になった事から、急遽テレビでの放送が決まりました。

2006年3月1日KBS京都 Live5

 テレビ局で放送されたのと同じ頃、商品にトラブルが発生しました。
 代表S氏の「大丈夫」という代表の言葉もほどなく取り消され、大急ぎで商品を全部回収する事になりました。

 あちこちを回って店頭に並んだばかりの商品を、手を尽くし、回収しました。私はS氏の指示で百貨店に伺い、担当の方にお詫びして商品を回収しました。その帰り道で悔しくて涙が出ました。

 後からわかりましたが、S氏は身体障害者である私が謝りに行けば、厳しい事を言われなくて済むだろうともくろんだ為でした。

 当時S氏から私に「原因」は伝えられましたが、「嘘」でした。
 本当の原因は2008年8月に辞めた後、複数の関係者の証言で判明しました。S氏が原料の製造プロセスを無断で変え、さらに手抜きしていたことが原因でした。

 私は気をとりなおして、「さあやりなおそう!」と営業開拓を行っていこうとすると、S氏から「あなたは耳が聞こえないから直接訪問の営業はやらなくていい」と言われました。

 営業しなかったら商品が売れないわけで、私は「おかしい」と抗議しましたが、「商品が不評で利益が出ていないから交通費を出せない」と言われ、会社の売り上げを確認しようとすると、わけのわからない事を言われ、のらりくらりとかわされました。

 私は耳のケア商品の開発も含め、立て替える形で多くのお金を出していましたが、報酬もなく、蓄えもだんだんと減っていきました。

 それでも私はどうしたら集客と収益を上げられるか考え、ホームページと電子メール、FAX、私が書いた資料を使った営業を続けていきました。

 おかげさまで別の販売店の紹介をいただく形で取引も広がり、2007年末時点では日本全国で開拓した販売店が約110軒になっていました。

 それにも関わらず、売り上げが思うように上がらず、困窮していました。私は考えていました。「こんなはずじゃない。なぜだ?」

 「人生の袋小路へ」 に続く

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