こころの変容

こころの夜明け」からの続き

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変容していったこころ

 2010年2月末、私はこころの中にいた「小さな子供」と和解したことをきっかけに、私はアドバイスを受けて、アチューメントの調整を繰り返し反復して受けて、ヒーリングの練習、復習を繰り返し、基礎を固めている過程を経ていました。

 とくに長い間「自己否定」だった感情を緩和することに集中しました。

 わたしを高いお金を捨てているという人もいましたが、放置しました。

 私は「高い理想」の自分になろうとする事を止めました。

 自分を誰かに認めてもらいたいから、あるいは好かれたいから。
 どこかで弱い自分を認めたくない、嫌われたくないから、エゴで自分以外の何者かを「高い理想」を幻想としてしまいます。

 私は「頑張る=我を張る」だったと気付きました。
 仕事中毒で、常に何かをせずにいられず、「明日の事を今日やらねば」とあれだけ急いでいたスピードを落としていきました。

 すると、見えなかったものが次第に見えるようになってきました。世の中には人間の頑張りや努力だけでは達成できない事の方が多い事に気付きました。

 次第に「自己否定」の感情が弱まり、楽に感じる事が多くなりました。

 私は徐々に自信をとりもどしていきました。物事を肯定的に考えられるようになり、孤独感も消え、「心の平安」と安心感、満足感を徐々に感じるようになりました。

 些細な事でも「楽しい」と感じる事が前より増えた事に気付きました。

 人間関係でも以前は失敗を怖れて人との関わる事を恐れていたのが、自分から積極的に話をするようになりました。

 他人のいい所を見つけようとする。
 地域の人達との関わりも増えていきました。

 前の癖が出てくる都度、自分を癒やしていきました。
 人間関係が多くなっていく都度、私の中の「エネルギー波長」が上がっているのがわかりました。

 毎朝、鏡の中の自分を見ると、自然と笑顔が出るようになりました。子どもの頃から嫌だった鏡に写った自分の顔を見るのが好きになりました。

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子供は「親の鏡」

 2010年4月、母が腰痛と原因不明の痛みを訴えてきました。医者にはうつ病とパニック症と診断され、「更年期障害ではないか」とも言われていましたが、薬を出す以外はお手上げの状態でした。

 薬は最初は2種類だけだったのが次第に16種類になってしまいました。いくらなんでも止めた方がいいと勧めると、逆にしかりつけてきましたが、次第に薬の副作用が出ていました。

 手足がぶるぶる震えて、一時は食事の時に起きる以外はぐったりと寝こむ日が続きました。薬害パーキンソン症の症状でした。

 レイキが原因不明の身体の痛みなど、精神的な問題に対応できる事を知っていたので、ヒーリングすると、母が強烈な「自己否定」状態に置かれていることがわかりました。

 毎日、母にヒーリングしていき、人からどう見られるか、「不安」、「家の恥」など、必要以上に世間体を氣にしている考え方のパターンに気付きました。

 「頑張らねば幸せになれない」「怠けたらバチが当たる」といった言葉の原因となる記憶がどこから来ているかをたどってもらう事にしました。

 最初は「弱い自分」を見せるのに強い抵抗を感じて、怒ってきたのですが、少しずつ話してくれるようになりました。若い頃からずっと「高い理想」の自分を目指して「頑張ろう」として、期待通りにいかない自分に怒り、腹を立てることが多くあったと言いました。

 「もしや、亡くなった祖母も?」と尋ねると、思い当たりがありました。

 「子供は親の鏡」「親は子供の鏡」とはよく言った物です。
 私が抱えていた主体性の無さや「不安」「自己否定」「頑張り過ぎ」が両親、とくに母から「継承」されていました。

 母は高校生の頃に父親を亡くし、一時期は祖母と二人きりで暮らしていました。

 祖母は夫を亡くした辛さを押し殺して、気丈に振る舞おうと、頑張っていたようですが、よかれと思ってやってきた事もあり、母が弱い自分に対する「怒り」を抑え込んでいたのも無理もありません。

 私は「良好」とは言えなかった両親、とくに母との関係を修復していきました。 

 母にはレイキだけでなく、食事の改善をすすめて、私が替わりに買い物に出るようにしました。

 母はわたしと鍼の先生の話で精神科がただ薬を出すだけのヤブ医者だと気付き、自発的に通院を止めて、うつとパニックの薬を止めました。

 どうしても眠れない時に睡眠薬を1日に半錠だけの服用レベルまで減らしていきました。

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『何か』が跳ね返した?

 2010年8月初め、複数の販売店の方から連絡が入りました。
 「移転先不明」となったS氏から案内が届き、私が考案した耳のケア商品が名前を変えて、別の会社から新商品として再販売すると連絡がありました。

 商品も私が考案したものとは中身が異なる「類似品」でした。

 「移転先不明」となったS氏がほとぼりが覚めたと、裏で再び動き出し、手っ取り早くお金を稼ごうと、潜在的にニーズのある耳のケア商品に性懲りもなく手を出してきたのは明らかでした。

 過去にも繰り返されてきたパターンで、その都度、関係者が泣きを見てきたことは知っていました。

 今回も知らずに販売してしまったら、販売店が大きな損害を被る事は明らかでした。

 販売中止のお詫びをした時、励ましてくれた皆さん1人1人を思い出し、私は即、販売店の皆さんを守る事を決めました。

 その時は不思議と不安と恐れはありませんでした。

 私はその日のうちにホームページを修正し、深夜の午前2時頃に公開、そのまま2日間で日本全国の110件以上の販売店に連絡しました。

 長い間待っていて、気付かず、注文してしまった販売店もありましたが、すぐに注文を取り消してくれたそうです。

 S氏の口車にのせられたであろう、製造販売会社がわからなかったのですが、見えないものに導かれるように経営者を見つけ出して、事情を説明する手紙を送り、判断はお任せしました。

 1週間後、S氏から販売店にわけのわからない内容のFAXが送られてきたそうですが、誰も相手にしませんでした。

 結局「類似品」が販売される事はありませんでした。

 後にある会社の社長にS氏が息子と一緒に「資金を融通して欲しい」と働きかけたそうですが、この社長もS氏の虚言に煮え湯を飲まされた1人でした。社長はしつこく言うS氏と面談したものの、「わけのわからない話」と感じて、相手にしなかったと聞きました。

 私は一連の動きには間違いなく、強い大きな力が働いたと感謝しました。

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「訓練すればできるはず」

 2010年9月末、ハローワークから勧められ、身体障害者を対象とした集団面接会に参加してみた時の事です。大手のP社の面接担当者に質問されました。

「あなたは電話ができますか?」

 過去から続いてきたお約束の質問です。
 以前の私は何も答えられず、ただ腹を立てていましたが、今回は笑顔で返答できました。

 穏やかに1990年代までは聴覚障害者も訓練して努力したら電話もできるようになるといわれていたこと、私もその当事者であることを丁寧に説明して、実際は電話や会話が100%健常者並にできるものではないこと、できるなら、それは聴覚障害者ではなくなることを説明しました。

 「失礼ですが、あなたのお子さんが聴覚障害者だったとします。面接で今の質問をされたら、あなたや周りの人はその会社をどう思うでしょう?」

 担当者は気づいて答えに詰まってしまいました。
 今思うと、痛い点を突いてしまったと思います。

 私のコミュニケーション能力が上がってきた事に気付きました。

 採用でおかしな人を採用しないよう、注意を払うのは当然ですが、こんな矛盾した質問があること自体、おかしな点です。

 怒ったり、ごねるための話にするのではなく、お互いに気づくきっかけにしていくなど、聴覚障害者当事者の認識も問われているといえます。

 なお、2012年12月の衆院選の時、思い出してチェックすると、聴覚障害者を粗末に扱うなど冷淡な対応をしてきた会社は例外なく経営が厳しい状態になっていたり、吸収合併あるいは倒産していました。

 反対に採用にあたって、不採用になってしまったけれど、誠実に対応してくれた会社は不況にもかかわらず、伸びていました。

 これは偶然でしょうか?

 全てのケースでこうだと断定することはできないけれど、伸びる会社とそうでない会社とでは間違いなく根底に流れる、目に見えない大きな力が働いているといえます。

 「新たな道へ」 続く

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